2 無名さん
(紺青色の絵の具を垂らした様な澄んだ空に、対照的な黄色がくっきりと浮かぶ宵。十分程の拘束時間を終えて各々がその日行動を共にする筈の相手と移動を始める中、相方が何の仮装をしているのかを把握していない己は、まずその彼を捜すところから始めなければならなかった。常よりも重たい頭部を白い手袋で包んだ右手をもって支えながら膝をバネにし立ち上がる。三角形に形取られた視界では足元が見辛く地面ごと揺れる様な感覚すら覚えたが、それも致し方ない。本日第一部、迷子センターの仕事は十中八九子どもを相手にするだろう、愛想の欠片もなく、かと言って作り笑いも狂気を孕む仕上がりにしかならない残念な状態では間違いなく子供に逃げられる。その打開策として考えたのがジャッ/ク・オ/ー・ランタ/ンの仮装であった。頭部全体を覆い隠した南瓜の被り物は良くも悪くも注視しなければ中の人間が誰なのか把握する事すら叶わない筈、それを暗に唆したメールは果たして彼の意識を捕らえただろうか。膝下まで覆い隠す真っ黒いローブを翻して、小気味悪い作り笑みの下真剣そのものの眼差し携えそれらしい人物の元へと歩み始めて/↑)
3 無名さん
いえ…違うんです、そういう意図ではなくて……はい、すみません。働きます、外します。(弁明の声が賑々しいパレードの夜に細々と掻き消えてゆく。劣位の問答の中、薄明に浮かび上がる土気色の肌に刻まれた、それはそれは深き苦悩ーーの、仮面。今やチープにデフォルメされて広く流通している白い仮面に、相方への宣言通り"芸術的な"要素を付加するべく自ら油絵具を塗り重ねて再現した仮装は、かのム/ン/クの名画。なかなかの出来栄えも、素地を持たない子供の瞳に映ったならばホラー映画の殺人鬼が生々しい質感を増しただけの代物。幼気な子供、それもさぞ心細かろう迷子に迫る殺人鬼という笑えぬ絵面を、迷子センターの統括者が笑って許す由も無かった。一しきり小言を受けて支給の簡易スコープと早速寄せられた迷子情報が記された紙を受け取る代わりに、渋々と面をずらし上げると、まこと教育的な仮装であると自負していたらしい美術部員の憮然とした表情が覗く。最早そこに立つのは胸元のピンバッジだけが浮いた地味な黒衣の男。しかしそんな風采は奇遇にも、近付く気配に振り返った先の南瓜男と頭部以外は妙に統一感を醸し出していたのだから、やはり今宵の相方は彼を置いて他に無いとも言えようか。盤石の笑みが却って不気味な相手へとまずは訝しげな視線を送り、その背丈と凄みに見覚えのある事を認めれば、不躾にも彼を指差しながら傍らのスタッフに悪足掻きを試みるが/↑)…これはセーフなんでしょうか?十分、怖いですよね。
7 無名さん
分かりました、俺も外します。…仕方ねぇ、今からでも笑顔の練習しとかねぇとな。(胸に着けた南瓜のバッジが本部からの照明を受けて光を弾き始めた頃、何やら問答する声が耳に届き始め。そんな不穏な空気を察知するに至るものの、粗雑な性格上上手く立ち回る事など知らぬまま、その身を以て戦場へと正面突破を図る。が、無骨な態度も彼が振り向き様に此方を指差す迄の事だった。そこに居たお偉いさんと思しき数名からの視線が一気に己へと突き刺さされば、嫌でも標的が自分に向いた事を悟る。南瓜こそ笑みを湛えてはいるものの、その奥にある素顔が笑っていたかは想像に難くない。数秒程の気味の悪い沈黙が訪れた後、スタッフに促され頭部を覆い隠していた南瓜の被り物を押し上げる。然し、釈然としない表情を晒すのもほんの数秒の事だった。一文字を決め込んでいた唇は頬に向けて大きく引き攣り歪なまでの笑みを形成、血走った目は大きく見開かれる。眼前から小さな悲鳴が上がるのを気にも留めず、両手に持っていた質感もリアルな南瓜を机上へと託してみるが、その南瓜はそのままあっさりと返却される事となった。それもそれで複雑な気分を抱く切っ掛けとなったのだが、一応は上手く切り抜けられた事に安堵する。ふと受付台に置かれた道化師の仮面に目を留めれば、そちらを指差して一つ提案を)ケイ、アレ借りろよ。ただの黒服の男もそれはそれで怪しいだろ。
9 無名さん
それじゃあこれ、借ります……どうかな、子供に好かれそう?(恐らくは意図せぬものであろう威圧感を放って止まない友人の相貌を、無理矢理に引き裂いたようなそれ。真正面から対峙してどよめくスタッフの傍らで、無遠慮な含み笑いを隠さぬ者がただ一人。無論、己の事である。結果的に彼の機転によって南瓜も無駄にはならず、此方は此方で八つ当たりに等しい立場の共有が果たされたとあれば溜飲を下ろし、すんなりと彼の提案を受け入れた。新たに顔を覆う事となった仮面に刻まれた笑みと涙と、そしていかにも胡散臭い雰囲気をその身に馴染ませ、退場を免れた南瓜の隣に並ぶと彼の視界にも収まるよう先程預かった紙を広げる。答えるまでも無い問い掛けもそこそこに己にしては迅速な動き出しを見せたのは、既に顔付きに心労の滲むスタッフの意味あり気な咳払いを受けての事でもあった。記された情報の一部を声に拾いつつも、全てを読み上げるに先んじて感想が零れ。その言葉通り、駅へと続く大通りには人の往来の激しさが見て取れる。折良く第一陣が出立した所だろうか、背後に佇む校舎に市民達の歓声が反響し、パレードの幕開けを仄めかして)ヒーローの仮装、駅前で母親とはぐれる…?あの中からじゃ苦労しそうだね。…始まったのかな?
11 無名さん
みたいだな、こりゃ前途多難だ。つーか…(言いたい事は山程あった。スタッフと彼との間で生じた火種が気付かぬ内に火の粉となって己に降り注いだ事、その結果大火傷をした己の傍ら、憚らずに事態を笑って流した事。尤も、メールで当日の話し合いをした際彼にかけた芸術的仮装への圧力も影響したのかも知れないが、まるで何事も無かったかの様に仕事内容を確認し始めた相方の姿を見るとそこまでは考えが及ばなかった様で。その彼が己にも見易い様配慮してくれたことにより殆ど視軸を動かす必要がないまま内容を確認する事が出来たのだが、心中に鬱積した憤懣が視界にフィルターを掛けたかの様に探し人の情報が頭に入らない。一向にその場を動く気配がない二人を見て痺れを切らしたスタッフが先程よりも勢いの増した咳払いをするのは時間の問題だろう、今はただ草臥れたブーツの底を鳴らして人混みの中へと突き進むのみ。人の多さは仕事への不安に拍車を掛けたが、そんな事よりも気になることがある己は少し進んだ所で立ち止まり、振り返る。堰を切ったように心の澱を吐き出し始めるものの、そんな事を顧慮する必要も無く口に出来るのは相手が気の置けない友であったからだろう)ケイ、お前さっき俺の事売ろうとしやがっただろ。イカ焼き奢りな、それでチャラだ。
12 無名さん
ん?何だっけ、そんな事あったかなあ。イカ焼き…(歩行者天国となった通りに満ちる電飾の灯りは、歩を進める毎に数を増して行くようだ。ミイラ取りがミイラになるとは言った物だが、そもそもが鮮やかな色彩際立っていた相方の頭部は、いざ人の波に紛れてみれば逆にその大きさが一層人目を引き追う事も容易い。懸念は杞憂であった。さて、晴れて百鬼夜行の闊歩する春峰市に相応しい見目となった二人組だが、すれ違う市民が会話を聞き取ったなら彼らの応酬は平時そこを行く高校生と何ら変わらぬものだと気付くだろうか。駅へと続く慣れた道、隣には気の知れた相手とあらば、それも道理であろう。黒衣の懐に手を差し込み革のコインケースを取り出し、迷子捜しの任務にしては些か高い目線が軒先を見回す。口先こそはぐらかしつつ、相手の要望に適う幟旗を探しているのは明白。しかし探し人も探し物も、求めれば擦り抜けてしまうもので数分後、漸く足を止めるに至った目的の店舗の前にて今度は眉間に苦渋の皺を寄せる己があった。そのまま声を潜め囁くのは、強気な"祭り価格"への対抗となる値切り交渉の要求。道化師の仮面越しゆえ一応は冗句のニュアンスを伴っているが、客を前にして黙々と炭火を燻らせる強面の店主がこの行事の趣旨に如何程の理解を示すやら、まるで定かで無い事などは鑑みておらず)…高いな……値切ってくれたら奢るよ、テツ。ほら、多分あれ…トリックオアトリート、通じるよ。
14 無名さん
普通そこはお前が行くところだろ、仕方ねぇな…トリックオアトリート。…トリック、オア、トリート!(凡そ2mはあるだろうか、見上げる程の体躯をこれでもかと言わんばかりに鍛え上げた男を目の前に小競り合いをする青年二名。三角に切り取られた視界からでも露骨に見て取れる鋼の様な筋肉は彼が意図せずとも強烈な威圧感を放っていた。意を決した様な面持ちで店主を睨み、魔法の呪文を唱えてみる。が、喧騒に掻き消えてしまったのか反応がない。もう一度、先程よりも一層腹を凹ませて大袈裟に唱えてみる。瞬間、ぎらりと光る瞳が己へと向いた。その目は明らかに言葉の意味を理解しているとは言い難い物であったが、今更引くわけには行くまいと更に行動を続ける。端から端へと分度器の縁をなぞる様かぶりを振り動かした先、似通った背丈である相方の頭部へと目掛けて落ちる。結構な重さを伴うそれが頭部に接触したならばじんと響く痛みがあるやも知れないが、此の期に及んで果たそうとした細やかな復讐は思惑通りに成功するだろうか。激しく動いた所為で目の位置がズレてしまった南瓜を白い指先にて押し上げながら勝気な台詞を吐き続ける光景は大男にはどう映ったか知る由も無いが、最悪の場合隣に佇む彼も巻き込む算段で相方へと目配せをして見せて)おっと失礼、高過ぎて南瓜が荒ぶっちまった。この調子じゃあイカ焼きがイカと南瓜のグリルになっちまうかもなぁ…なぁ相棒。
15 無名さん
(立ち込める煙たさも相俟って、とても和やかとは言えぬハロウィンの一景に、更に挑戦を重ねる相手の行為はさながら度胸試しの様相だ。不穏な雲行きに致し方なくコインケースを開き掛けた瞬間、視界がぐらつき、妥協の言葉は喉奥をせり上がった微かな呻き声に挿げ替えられた。こめかみに走る鈍痛の所以を直ぐには理解する事が出来ず、俯いたまま相方の悪人染みた台詞が耳腔を抜けて行くのを感じていたが、連帯責任宜しく鋭いパスを打たれた所でやっと思い至って非難に細めた横目を送る。しかし友人のささやかな報復よりも、今は店主の視線の方が痛い。言い出した手前引くにも引けず、己も調子を合わせて鷹揚に紡いでみればいよいよ膠着する戦況、網の向こうで串を握る拳が震えるのを確かに認めた。恐らく一喝を放つ為、彼が大きく息を吸う仕草に此方もぐっと身構えたとき、相方と己の間、腰の辺りで何かが動き)そうだね。それはもう、不味いだろうなあ。この南、瓜……おっと。ごめんね。(大男の店先を黒服が占有する光景はさぞ異様に見えただろうが、そこへ割って入る勇猛果敢な少年が一人。先程から青年達が躍起になって繰り返す呪文の正しい使用法、そして本当の効用を知らしめるように、邪気のない笑顔で唱えてみせる。そして男が再び黙殺を決め込んだ暫しの間の後ーーぱん、と。少年の手の内から、クラッカーの弾ける音が響き渡った)
16 無名さん
(本来ならばその場は笑顔に包まれた幸せな空間でなければならないだろう。まるでそこだけを切り取ったかの様に張り詰めた空気は深海の如き圧迫感を伴っていた。が、幸か不幸か極限の緊張下敵と対峙する事に慣れ過ぎていた己は、目と鼻の先に迫る危機よりも報復が成功した事による喜びを抑え切れず、南瓜の下薄ら寒い笑みを浮かべる。黒いローブに覆われた肩が小さく震えるのが笑いによるものだと気付かれたならば間違いなく神経を逆撫でるだろう。そんな妙な戦に終止符を打ったのはクラッカーの弾ける音と見知らぬ少年の訪れだった。突然の事態に状況が飲み込めない己は呆然と少年を見下ろすばかりであったが、気が付けばつい先程まで怒り心頭の様相であった大男の表情はすっかりと緩み切り、宛ら初孫を迎えた祖父の様で。無邪気な笑い声を轟かす少年の額は戦隊物の主役と思しき仮面で飾られ、それに合わせた真っ赤な子供用スーツが着用されている。まさに探し人そのものである。にも関わらず情報を確認したその折別の事で頭を一杯にしていた己は事態に気付けぬまま、未だ値切る事に集中していた。しかも今度は冷静に、且つ謙った態度で攻めて行く腹積もりで糞真面目な顔付きのまま妙な事を口走っている。そうこうする内人波の中風の如く消え去ってしまった少年が本来追うべき人であった事に気が付くのはいつになるだろう)…先程は本当に申し訳ありませんでした。更生して畑に身を埋めますので、出来たら最後にイカ焼きを恵んで頂けませんか。
18 無名さん
……、あの。それ、スミになりますよ。イカ、だけに…(何から触れようか。切り込んだ挙げ句悪戯と屈託無い笑みを咲かせ行ってしまった小さな英雄、彼に絆されて手元の串を焦がしかけている店主、あるいはその店主に向けて新たな珍策を講じ始めた友人と、捨て置けぬ展開が一挙に襲い来た事で一時、言葉を失って。開いた唇に発声が伴わないまま視線を彷徨わせた末に、一先ずは目の前で片面からじわじわと黒炭への変容を遂げかねないでいるイカ焼きを救う事を選んだ。その際明らかに不要でしかない冗談をぽつりと添えたのは、月夜と仮面がそうさせたのか。ともあれ慇懃極まりない南瓜男に対しやや軟化した態度を見せ始めていた店主は、慌てて串を取り上げると脇へ寄せて額の汗を拭う。序でに幾つかの仲間が炭化を免れ、これが駄目押しの一手となった。少々の焦げ付きを妥協する代わりの値引きを提案して来た店主にはこれ幸いとすかさず首肯を返し、千円札を一枚差し出すと引き換えにそれぞれの手に渡る二本の串と釣銭。加えて隣の彼には袋入りのプラスチックパックに収められた、此方は訳有り品ではない一本が委ねられる。店主は先程の少年の呪文に応える心算らしい。更正を宣誓した青年達が恵まれたのは、この遣いの手間賃と言った所だろうか。男に礼を告げ、ようやっと華やかなパレードに目を向ける余裕も取り戻された頃、何か重要な事が脳裏を過ぎった気がして隣の相方に声を掛けたのだが丁度手の甲に垂れたソースが思考を霧散させてしまえば、些か義務感を欠く発言と共に再び歩き出すだろう)ねえ…熱!…はあ、探し人が二人に増えたね、取り敢えず行こうか。さっきの子、一人かな?
20 無名さん
参ったな…熱!…イカ焼き美味かったわ、ありがとよ。(多岐亡羊と化した状況に困却する一言もイカ焼きを手にした今となっては臨場感の「り」の字もなかった。吸血鬼やゾンビが行き交う異世界の様な光景に事務的な目線を配り上辺だけ人探しを行っている様だったが、その実脳内はイカ焼きに占領されていた。逸る気持ちを抑え切れず山と谷とを繰り返す南瓜の口へそれを突っ込む荒技に打って出るも、無事狭い空間を潜り抜けて漸く口許まで届いたイカは上手い具合に口内に収まらず、結果下唇へと当たって矢庭に軽い火傷を残す羽目となる。然し、謎の拍子で発動された不屈の精神の下再び南瓜の口へとイカ焼きを運び、今度はしっかり肉厚のそれにかぶり付く。熱い息を吐き出しながらきつく奥歯を噛み締める度ほんのりとした苦味が滲み出すのは焦げの影響か、それが却って味に深みを増している様で舌鼓を打つ。冗句など挟むハプニングもありながら最終的には道化師の彼の一言が決め手となってイカ焼きを入手出来たのだから、礼の一つでも言わねばなるまいと常より僅かに満足感で緩む顔を隣へと向けた。その口振りには相変わらず可愛げの欠片も無かったものの、言葉を連ねる度上下に揺れる串がイカ焼きの感想にだけは真実味を加えただろう。完食したところで初めて「仕事」の二文字が脳裏を過る。今更ながら情報を再確認しようと相方に問い掛けたその折、遠くの方に見覚えのある赤い服の少年を捉え、今し方空いたばかりの右手を差し出して)多分親は居なかった。…そう言や、俺らが元々探してた餓鬼ってどんなだったっけ。…ケイ、スコープ貸してくれ。
24 長ロル1
(ジリジリと照り付ける太陽が調度頭上を僅かに超えた頃だろうか。開け放った窓から聴こえる意識を掻き立てる様な蝉の声、多少猛威が失せたとは言え、夏の色濃い陰影が窓枠の形を机上にくっきりと刻んで見せる此の熱い昼下がり。――…ああ、こんな風に蒸し暑い夏を、掃いては捨てて繰り返す日々を自分は良く知っていた。仲間と駄弁り、下らない会話で笑い合い、明日なんか当たり前の様に訪れる至って凡庸なあの、平穏極まりない日常を。懐古に耽らずとも、其れはそう遠くない過去である筈なのに、其の光景がこんな風にまざまざと懐かしく蘇ってしまうのは、此処が "教室" 故だからだろうかと一人、後列窓際…一番にお気に入りの座席を陣取り突っ伏した体制で密かに息を飲み考える。屋敷を抜け出し月ノ瀬を練り歩く習慣は最早慣れた物、そうであっても唯一白昼では踏み入った事のない此の "校舎" へと訪れてしまったのは、自分自身今でも何故だか理解が追い付かないでいた。大した理由が有った訳では無い。ただ、夏の終わりが近いと訴える花壇に並ぶ向日葵達の翳りが、如実に消え行く此の世界を思わせ己を招いてしまったのかも知れないとだけぼんやり過ぎらせている。机面と自身の頬をくっつけ、怠惰に頭を傾けると浮かんでいた汗が髪を肌へ貼り付ける。何をするでも無く見上げた空には、目の覚める様な入道雲、自らの手で開いた侭の窓を額縁に見立てる其の光景はまるで現に干渉しない絵空の様である。座学が苦手な己が強制参加と言う名目で縛られた夏期講習、去年の今頃もこうして、同じ様に空やグラウンドを眺めていた物だった。景色は違えども、あの頃の様に目を閉じこのまま "朝" と "夜 "を数えるだけ見送れば、恐らく夏を越え秋を迎え、己の日常は取り戻せるに違いない。→
26 長ロル2
続き→
だが其れでは駄目なのだ、…いや、正しくは『駄目』では無く『嫌』なのだ。駄々を捏ねるだけの此の気持ちが、甘いと言われようが幼稚な我が侭と取られようが、大口を切ったあの宣言こそが、自らを支える大きな柱に違いない。此れ程に熱へ溶かされだらけた手前で在っても、ふらふらと此の場に来てしまった理由、「そんなもの…いい加減わかりそうなモンだろ、」脳内で自分の声が木霊すれば、俯せた額を数度軽く机へ打ち付け顔を上げる。と、強かに響く鈍い音と同時に都合良く首から下げていたお守りがシャツの隙間から溢れ出た。奇しくも此の場に在ったと言う自身の大切な失くし物、手前の其れはこうして手元に戻って来ている。だからこそ、未だ大事な何かを "失くした侭の人" の恐れも考えも覚悟も、きっと自身では対等に感じる事は出来ないだろう。其れでも季節が移ろう其の前に、やらなければならない事は、誰へも平等である筈。――何が変わったと言う訳ではない、恐らく先日の帳面に記されていた…皆が感じた程の変化は自分には見当たらない。見たくない物を見ないのも、調子よく叩く大口も、恐れに怯え諸々の何もかも、拭うどころか現在進行形で抱える弱味は増えて行く一方。其の弱味の一つが、此処に居る理由に違いないと眉を寄せ気合を入れる。ぐだぐだと考えたって結局はそう、単純な自身を動かす燃料は『嫌』だけでいい。立ち上がり見た空は、相変わらず嘘の様に青に白いコントラストを刻んでいる。蝉の声は止んでいた)……でも、机に願いとかはなし。危ねえよなー…そう言う甘い蜜。目の前に出てこられたら、それこそうっかり頼っちまいそう。(果たしてどれだけの時間を此の場へ費やしたものか。日当たりも気温もそう変わらない空間で一人、大きく伸びをして汗を拭う姿勢の侭何気なく教壇へ視線を向けた後、壁上方に備え付けられた時計を見るが勿論時が刻まれている筈もなく、幾分も残念な面持ちで其の侭黒板へと視線を定め深呼吸。夜までの間どうした物か等と、今後の行く先をあれこれと意識へ巡らせようか)
だが其れでは駄目なのだ、…いや、正しくは『駄目』では無く『嫌』なのだ。駄々を捏ねるだけの此の気持ちが、甘いと言われようが幼稚な我が侭と取られようが、大口を切ったあの宣言こそが、自らを支える大きな柱に違いない。此れ程に熱へ溶かされだらけた手前で在っても、ふらふらと此の場に来てしまった理由、「そんなもの…いい加減わかりそうなモンだろ、」脳内で自分の声が木霊すれば、俯せた額を数度軽く机へ打ち付け顔を上げる。と、強かに響く鈍い音と同時に都合良く首から下げていたお守りがシャツの隙間から溢れ出た。奇しくも此の場に在ったと言う自身の大切な失くし物、手前の其れはこうして手元に戻って来ている。だからこそ、未だ大事な何かを "失くした侭の人" の恐れも考えも覚悟も、きっと自身では対等に感じる事は出来ないだろう。其れでも季節が移ろう其の前に、やらなければならない事は、誰へも平等である筈。――何が変わったと言う訳ではない、恐らく先日の帳面に記されていた…皆が感じた程の変化は自分には見当たらない。見たくない物を見ないのも、調子よく叩く大口も、恐れに怯え諸々の何もかも、拭うどころか現在進行形で抱える弱味は増えて行く一方。其の弱味の一つが、此処に居る理由に違いないと眉を寄せ気合を入れる。ぐだぐだと考えたって結局はそう、単純な自身を動かす燃料は『嫌』だけでいい。立ち上がり見た空は、相変わらず嘘の様に青に白いコントラストを刻んでいる。蝉の声は止んでいた)……でも、机に願いとかはなし。危ねえよなー…そう言う甘い蜜。目の前に出てこられたら、それこそうっかり頼っちまいそう。(果たしてどれだけの時間を此の場へ費やしたものか。日当たりも気温もそう変わらない空間で一人、大きく伸びをして汗を拭う姿勢の侭何気なく教壇へ視線を向けた後、壁上方に備え付けられた時計を見るが勿論時が刻まれている筈もなく、幾分も残念な面持ちで其の侭黒板へと視線を定め深呼吸。夜までの間どうした物か等と、今後の行く先をあれこれと意識へ巡らせようか)
28 いかやきの続き
(戦利品を堪能するため額にずらした仮面の下広くなった視野では、見慣れた街並みが随分と変貌を遂げているのが分かる。しかしそんな中でも己が隣、イカと格闘する南瓜男の珍妙さはこの異空間においてさえ全く埋没していないと言えるだろう。飽くまで頭部を外さず南瓜男のままでいようとする彼の胸中でイカ焼きがそこまで存在感を築いているとは知らずに、ただただ感嘆と疑問の入り混じる視線を送った。しかし己は己で碌に仕事もしていない割には彼との間に妙な共同意識が生まれつつあって、告げられた礼には敢えて軽くかぶりを振るのみで疑う素振りも無い。言われるがまま懐から取り出したるスコープを彼の手元に託し、代わりに串を受け取ろうか。同時に己は畳まれた紙を再び開きつらつらと探し人の情報を読み上げる。途中ふと通りを行くパフォーマンス集団の中に一際目立つ髪色の女性を捉えたが為に、相方には一部誤解を招きかねない情報が行き渡る事となったが。彼女の登場に伴って人の群は数十メートル先で熱狂を増幅させ、その大きな余波が徐々に此方へと広がって来るのを視界の端に認めれば些か焦りを孕む感想も挟まれ、自ら読み上げている情報と先程見た光景を結び付ける回路は今の所機能していない。それ程非日常が思考を麻痺させているのか生来の性格的な構えなのか、相方がスコープを覗き込む間に串を近くの回収箱に捨てに行く歩調もまた同様に鈍いもので)はい。…6歳。身長120p、名前は…大聖寺さんだ!目立つなあ。ええと、戦隊ヒーローの衣装…うわ凄い人。色は赤、悪戯好き、人見知りしない性格…だって。
33 無名さん
なぁケイ。その大聖寺って餓鬼、もしかし、て…。(赤い服を着た少年は、人の頭と頭との間に見え隠れしている。いつ人波に吸い込まれるかも分からない状況に慌ててスコープを右目へと押し当てるが、南瓜が壁になって思う様に彼を見る事が出来なかった。それでも何とか先程の少年だと確信できる程には拡大して見る事が叶い、一歩一歩確実に距離を縮めてゆく。相棒が読み上げる情報を脳内で復唱しながら少年を見詰める内、その彼の特徴と探し人の情報とが見事にマッチしている事に気付き、己の中に一つの可能性が浮かび上がった。尤も、一番重要と思われる情報は間違って頭に入っているのだが、今は知る由も無い。すぐ様その事実を伝えようと振り返った先、相方の姿が無い。気が付けば先程よりも人の数が増え、彼が居た筈のその場所を魔女やら悪魔やらが忙しなく通り過ぎて行く。何の事はない、その相棒は先程阿吽の呼吸よろしく受け取った、不要となった串を捨てに行ってくれていた訳なのだが、彼が知らぬ間に迷子になったのだと錯覚するには十分過ぎた。実際のところは此方が迷子となっており、真っ赤な縁で彩られたフライドポテトの看板へと向かい歩き始める始末で)…ったく、どこ行ったんだよケイの奴。ポテトか?ポテト食いに行ったのか?
38 無名さん
…ん?(名を呼ばれた気がして振り返れば、彼の黒衣はごった返す人波によく馴染んで、派手な仮装者達の合間を縫って行く様は黒子のようだ。それが己の目には、周囲より頭一つほど浮いた南瓜がふわふわと、さながら群衆が作り出す波の上を漂っているように見える。まるで何処ぞの昔話のようだ…と要らぬ連想も始まりつつ彼の元へ歩き出そうとしたのだが、人波に邪魔されてその道筋は思うように行かず、そこで漸く相棒と己の間に出来上がった距離に気が付いた。決して遠くはないにせよ狼狽するには十分な距離、と言って18歳の青年が大声を上げる程の緊急性があるかと言えば悩ましい所で、決断し切れぬ足取りは迫る熱狂の波に逆らえず流されて遠退く。流石に不味いと思った時には遅かった。まさか相棒が別の屋台を目指していたとは見当も付かず喉を開いた矢先、視界の端にちらついた赤い服。瞬間的に繋がった二人の少年像に思わず別の声を上げた。目が合った少年がニイと悪戯っぽく白い歯を見せたのが己の見た最後、小柄な英雄は通りすがった魔女のローブの隙間に消えて行き。完全に姿が見えなくなる直前、彼の小さな手にはクラッカーではなく何やら見覚えのあるチューブが握られていた。これも例の魔法の呪文で手に入れた戦利品なのか、それとも趣味の悪い悪戯用か。兎も角真っ赤なケチャップを武器と構える英雄、もとい小さな悪魔が次に狙うは恐らくフライドポテトなのであろう)…ヒーロー!待っ、ああ…すみません、通して下さ…い…
41 無名さん
……食うか?(相方と逸れたと言うのに、危機感のない南瓜は右手に確りとポテトを携えていた。元よりフライドポテトの店に歩を進めたのは相棒の彼が「馬鈴薯の駄菓子を好んで食べている」という情報一つを頼りにしたものであったのだが、いざ店を目の前にするとあっさり食欲に屈してしまうのは食べ盛りの己にとって免れ得ない事だったのかも知れない。持て余した手袋はもう片方の手に預け、薄ら塩味の効いたポテトに齧り付く。相方が人波に揉まれ苦戦している事など露知らず、ただ一人ポテトの美味しさに浸り満足感を得ようとしていたその時…ふと足元に感じる違和感。見覚えのある赤いヒーローの格好をした少年がローブを引っ張っている、それも物欲しげな視線のおまけ付きで。果てさて、先ずは託されたイカ焼きを差し出すべきか、素直にポテトを分けるべきか、すぐ様引っ捕えるべきか。思案を繰り返した末結局少年の眼差しに負けてポテトを差し出すこととなるのだが、それが運の尽きになるとは思いもしまい。ポテトを片手に持った少年が待ってましたと言わんばかりに瞳を輝かせたのを確かに捉えた刹那、見る見る内にそれを赤く染めてゆく。チューブから溢れ出るケチャップが己の瞳までも赤く染め、絶望感を誘った。その絶望感が怒りへと変貌を遂げるのにそうそう時間は掛からず、片手に握っていた手袋が静かに押し潰される。危機を察知した少年が避難をしようと踵を返すも時既に遅く、少年の首根っこを無慈悲に引っ捕え仔猫の様に宙にぶら下げる光景は人々の目にどう映るのだろう)待てコラ、逃がさねぇぞ。
44 無名さん
(距離にしてたった十数メートル。しかしパレードの楽隊が行進を止め、大通りを占拠した事で人々の動きも合わせて停滞すれば、その河を強引に割って進むのは余りに骨が折れた。厚みを増していく演奏は謝罪の声すらも呑み込んでしまう。煌びやかな、又はおどろおどろしい衣装の間を掻き分け、抜け出た時には視界はいやに清々しく開けていよう。実際は額にずらし上げていた仮面が波の中へと攫われて行った事がその直接的原因なのだが、未だその事実に気付いていない己は解放感のままに先刻相方が見えた辺りへと急ぎ赴いて、そして捉えた光景に絶句した。宙に浮いたまま足掻く少年の手足が届いたとして、南瓜男に与える衝撃は微々たるものだろうが、その手元に握られたチューブから飛散する赤い調味料はどうだろうか。少なくとも市民は明らかに被弾を恐れ、この混雑にも関わらず妙に開けた場所が作り出されている。救いなのは少年の口から発せられる喚き声がどこか愉しげであった点だが、それも己と目が合った瞬間に驚異的な柔軟さで止んでしまって、代わりに喉を裂かんばかりの大泣きが彼を吊し上げている「犯人」を責め立て始めたのだから恐ろしい。当然ながら幼い子供の小芝居とは明白と言えど、この手の演出は否応無しに気不味い空気を呼ぶものである。さて年上の矜持をもって諌めるべき局面、思い出されるのは先程屋台で見舞われた一撃。つかつかと彼に歩み寄ると少年が地面に降り立つのを助けるつもりで手を差し出しながら、聞き様によっては腹立たしいであろう猫撫で声で相方への"報復"を告げ、視線を送る。ケチャップの暴走に恐れ慄いた市民もまた急かすような視線を彼に注いでいる事だろう)ああ可哀想に…離してあげなよ。君、この怖いお兄さんが謝ったら許してくれるかな?根は良い人なんだ。うん、それで水に流そうね…お母さんが待ってるよ。
49 無名さん
お前ら、いつ手を組んだんだよ。…(其処彼処に聳立する無表情な建造物も今となっては巨大なスピーカーと成り代わり、音を反響させる。その軽快な旋律は己と少年二人を取り囲む空間を奇怪千万な物へと変化させた。と言うのも、少年が両腕を振り回して抵抗を示す度ケチャップが辺りに弾け飛んで己が身に纏う真っ黒なローブや草臥れたブーツに血痕を残したものだから、宛ら返り血を浴びた殺人犯が次なる獲物を捕らえたかの様な酷く狂気染みた状況と相成っていた為である。然し、突如として飛び込んで来た男ーー少年からしてみれば正真正銘正義のヒーローであろう相方の登場によって状況は一変する事となる。道化師の仮面が無くなっているのに一瞬気を取られたが、空を裂く勢いで和郎が泣き出した為にそれどころではなくなった。襟首を掴む腕を目一杯突っ張って出来るだけ距離を置く抵抗を試みる、そんな気休めの行動の中鼻にかかった様な声と共に送られる意味深な視線は、言葉にされるよりもその意図を汲み取るに容易かっただろう。今にも噛み付かんばかりの顔付きで彼を睨むも、周囲の視線が痛いのもまた事実。小さく舌打ちをした後に少年を地へと戻し、不満を織り交ぜながら棘のある口調に乗せて詫びの言葉を一つ落とすが、相変わらず不満気な表情を浮かべた彼に今一度の謝罪を強いられるのは当然の事か。半ば自棄糞な謝罪をしたその時、間の抜けた携帯のアラームが鳴り響く。それは第二部の開始を告げるもので、事態の収束に向けて働きかけてくれるだろうか)悪かったな…。あぁ、すみませんでしたね!これでいいだろ。
51 無名さん
ふっ…はは…じゃ、戻ろうか?(刺々しい謝罪に固唾を飲んだ観衆が作り出す張り詰めた空気を打ち破ったのは、禍中の人の懐から響く電子音であった。緩く解れていく緊張感の中、報復の報復を果たして子供っぽい満足心を隠せぬ己が少年と目を見合わせると、彼もまたしたり顔で胸を張っている。事態を飲み込んだ人々によってケチャップの悲劇の責任を負わされる前に彼と共に本部へ急ごう。それにしても観衆とは好い加減なもので、一旦場の空気が変わってしまえば、不満気な謝罪の言葉ですらこの凄惨たる現場を締め括る文句として及第点と感じられたらしい。両手を打つ乾いた音がパラパラと零れ始めたかと思えば次第に纏まりを持ち始め、最終的には圧巻の拍手の波がその場を発つ二人の和解を祝していた。異空間と化した現在の春峰市においては事実関係は些事なのであろう、何が目出度いのか指笛を鳴らす者さえ出る始末。少年も子供らしい転調の速さで今やすっかり顔面に笑みを広げ、血みどろの、そして若干甘酸っぱい調味料の香りを身に纏う男に何やら興奮気味に本日の冒険を語り聴かせている。先の教訓から彼らの視界で一歩先を歩く事にした己には、振り返らずして当人の心境を推し量る事ままならないが、どうやら彼が懐かれているらしいと言う推測は楽しげなボーイソプラノから容易に成り立った。本部のブース前にてカメラを受け取る頃には相方の不満も幾らか解消されているだろうか。或いは深まっている可能性もある訳だが…、連絡を受けた母親とまみえるまでは少しの猶予がある。スタッフとの短いやり取りの後、振り返り様にカメラを向けて、第一部の結末を先ずはファインダーに収めよう)はい。それじゃ行ってきます。……二人共、一足す一は?
53 最新レス
(何故だか湧き起こった拍手に包まれて、何故だか良い雰囲気で現場を後にしたのは良いのだが、南瓜男の表情はいつまで経っても晴れる事はなかった。節約に節約を重ねて漸く搾り出した僅かなお金をポテトに費やしたと言うのに、肝心なそれは今やただのゴミと成り果てて少年の手により葬られる始末。おまけに報復の報復で謝罪を強いられた事も呼び水の一つだろう。悠然と前を歩く相方に向けて突き刺さらんばかりの視線を以って不服の念を送り続けるが、小型犬が如く足元を彷徨き何やら語り掛けて来る赤いシルエットが視界の底をちらついて離れない。淀みの無い視線が真っ直ぐに己に向けられている。子供の笑顔と言うのは邪気すらも浄化するのだろうか、疑問を抱く程先程迄の陰鬱な感情は消えて無くなっていた。その頃には向けられたレンズに素直に視線を配る程には通常運転となっていたのだが、ヒーローとの写真も欲しいと強請る少年に促されるがまま今度は己が撮影しようかと相方の持つカメラに手を伸ばしたその時分、タイミングが良いのか悪いのか柔らかな声の女性が駆け寄って来る。嬉々としてそちらに向かう少年の背中を見れば、女性が何者なのか一目瞭然であろう。迷子が母親と再会したのだから、流石の己も幾分か穏やかな気持ちを携えて歩み寄り挨拶をするつもりであったが、少し前に与えられた誤情報が和気藹々とした空気を一瞬凍らせる事になるとは誰が予測出来ただろうか。イカ焼きを手土産に謝辞を述べて去って行く二人の背中を見送った後、一言も口にせぬまま相方の方へと向けた視線が彼を責め立てていて)大聖寺さんですね。…え、違う?……。
58 無名さん
(去るハロウィンで個人的に仮装した友人から私物の一部を入手したグレーパーカーを羽織るこの男は、今日も今日とて良からぬ悪知恵を働かせていた。野望の為ならば手足や脇の無駄毛に別れを告げるなど朝飯前の本気ぶりを遺憾なく発揮し、何の引っ掛かりもなくなったつるつる卵肌が膝下丈のスカートから覗く。本物と見紛う程の逸品、毛先までかかる天使の輪が目に眩しい艶やかな金髪ロングヘアーのカツラを被りし175cm級の女装姿でいざ参らん、女の花園へ。――決行時刻はとっぷり日が暮れた20時頃、慣れない緊張で酷く粘る唾を飲み下し意を決して飛び込むと、赤い暖簾を潜り抜けた瞬間から出迎えてくれる洗剤の香料が男性用のものとは異なり確実に華やかな匂い故に自然とボルテージが高まってゆく。まだ何も目にしていない段階で正体が明らかとなり出鼻を挫かれる訳にはいかぬので、勝手に伸びてゆく鼻の下を引き締めるために脱衣所へ続く無人通路のど真ん中で頬を張って気合いを入れ直し。/↑)
59 58の続き
やー、マジで言ってんのそれー?やーばー…んで?その後、どーなったワケ?(部屋着として使用している黒のスウェット上下を身に纏いし少女は人気の少ない廊下を一人歩いていた。既に入浴を済ませたこの身は平生であれば日課のSNSチェックやらアプリのメッセージチェックやらに励んでいるところであったが、ベビーピンクの手帳型カバーとストラップ部が黒猫を模したイヤホンジャックに守られたi/P/ho/neを耳に当てながら風呂場を目指すのには訳があった。遡ること約一時間前、本日は自室のシャワールームでは無く大浴場で身体を清めたい気分であった。無事に湯浴みを終えて自室にと戻ったところで小学校、中学校と親しくさせて貰っていた友人から着信があったのでついつい長話となった仕舞い。暫く話し込んだところでふと大切なものを風呂場に忘れた事に気付いたが、旧友との通話をたちきりたくないと暫しの葛藤を経て、それなら話ながら忘れ物を取りに行けば良いのではと考え付き。軽いお頭しか持たぬ馬鹿女はハートと苺のジビッツに飾られたクロックスに足を突っ込み、軽く整えただけの暗い茶髪を揺らしながら歩く。勿論通話は続けたままであるが周囲を気にしてか声量は控えめとなっており。程無くして辿り着いた女湯の出入口に掛かる赤の暖簾を空いた片腕で押し上げるも話に夢中になっていたせいか脱衣所まで伸びる短い通路に立つ先客にすぐには気付かず、数歩進んだところで遅れ馳せながらその存在を認知した瞬間……僅かに水気を帯びる床に足を取られて前につんのめり、咄嗟に伸びた左手で相手のブロンドに掴まらんとするのだが結果や如何に。掴めたにしても空振ったにしても引力に従いて派手にぶっ倒れた衝撃でスマホを手離し、受け身も満足に取れず情けない叫びを反響させながら床面と熱い抱擁を交わす事になった。しこたま打ち付けたせいでジンジンと痛む額を片手で擦りながらゆっくり状態を起き上がらせた途端、顔色をサッと青くして謝罪を手向けるべく面を持ち上げようか/↑)ちょおっと、もー!勿体振ってない、でっ、て!?……おぎゃあッ!───あ、あったたた。っうわあ!ご、ごめんなさ…っ、
60 59の続き
よし……!(これも夢の世界への本気度合いの表れなのか、自分相手でも手加減なく乾いた破裂音を伴って平手打ちした結果、みるみるうちにひりつくような痛みを帯びてゆく頬に赤い手形がくっきりと浮かんでいる。その行為はだらしなく緩み切った表情を引き締めるに十分過ぎる程の効果を齎し、先程迄の厭らしい笑みが一転して女湯に侵入している真っ只中の男らしからぬ真面目くさった真摯な顔付きへと変貌を遂げた。己にしか聞こえない程小さい決意の言葉を発する最中にも、後方から届く姦しい話声が徐々に此方へと近付き音量を増している事実に全く気が付かない訳ではなかったけれど、まさか決意を固めた瞬間に女装の要である金髪を引ん剥かれてしまうだなんて考えもしなかったがために道を譲る態度を示さなかった末、今に至る。謝罪を聞く耳など持たない丸腰の不審者は厄介事になる前にという思考回路の下、床に熱いお灸を据えられて素直に痛みを訴える相手を尻目にそそくさとその場から逃げ出していった。途中、彼女が今尚鷲頭噛んでいるかも知れないブロンドを踏み付ける一幕もあり。/↓)……ごめんなさぁぁーーーい!
61 60の続き
えええ、うそうそうそ!嘘だよねっ!?ナニコレどゆこと意味分かんないー!わあっ!なに!?(咄嗟に突き出した弓手が取得したは照明を受けて輝く長い長い長髪であったか。相手を見上げ、手元の毛束に目線を移し、また相手を見上げ…まるで意味の無いその動作を三往復程繰り返したところでゆっくりと見開いた瞳をグルングルンと回しながら一人勝手に混乱し始める己の傍らを件の人物は駆け抜けていった。盛大に声を上げて驚倒する此方の様子になど構っていられないらしき彼女…もとい彼は先刻まで自身の頭部を守っていたブロンドを踏みつけながら早々に場を辞して。残された少女はと言えば口をアングリとさせた間抜け面のまま少年が走り去っていた先をただ見詰める。おもむろに持ち上げたウィッグに視線を落としてから小さく首を傾げたところでハッとなり、緩慢に立ち上がると取り落とした機械の元にまで歩み寄ってそれを拾い上げる。画面に耳を近付けては会話を再開させつつ忘れ物である髪留めの姿を求めて脱衣所へと消えて行き/↓)え、ええ…?これ、ウィッグー?───あ、忘れてた……ゆうちゃん、ごめんねえ。何か不測の事態が…うん?うん、うん、大丈夫だよー。