83 無名さん
あかいろ。散々これまで慌ててきたせいでいざ結果が出るとやっぱりなーという落ち着いた気持ちだった。「どうすんの」と訊かれて「おろすけど」と言ったら彼氏はぎょっとしたふうだった。「なに、結婚してくれんの」とわたしが笑うと、「あなたはさ、そもそもおれと付き合ってたの、妥協だったでしょ」といきなり言われた。わたしは彼のそういう頭のいいところが好きだった。拗ねもせず怒りもせずただ事実だけをするりと言うのだ。わたしたちはとても冷めていた。最初から、熱に浮かされることなんてなかった。お互いの必要なものを与え合えるからいっしょにいる、ただそれだけの関係だということに言葉に出すこともなく納得していた。
「うん」
「じゃあ、いいよな」
「うん。……」
彼はわたしの頭の上に手をおいた。その手はするするとわたしの髪をなでていって、首のあたりでぐっと力を込めると、すぐに離れていった。彼はわたしに何かを言いたかったのかもしれないけれど、わたしはそれからなにも汲み取ることはできなかった。
「おれよくわかんないんだけど、こういうのって何万いるの」
「べつに、いいよ」
「強がんなくていいよ」
「いいから……」
彼はわたしの眼をジッと見て、それからかぶりをふって、「今度、渡す」と言った。それから「じゃあな」と言って、軽く手を振って、わたしを置いて先に歩いて行った。わたしはしばらくその場に立ったまま、自分の中にあるよくわからない感情に言葉を与えて読もうとしていた。わたしは、もしかしたら追い詰められているのかもしれない。息の詰まる感じがして、呼吸は浅くて、気持ち悪くて、はやくこんなうるさいところから帰ってしまいたかった。
84 無名さん
保健室に寄って、頭痛がすると言って帰る許可をもらって、そのあと帰るという報告をするために担任をさがしまわっていたら、「どうしたの」と高尾が声をかけてきた。
「吉田先生さがしてる」
「なんで?」
「帰るから」
ふーん、と高尾はつまらなそうな声を出した。
「職員室にはさっき見てきたけどいなかったんだよね」
「理科準備室は?」
「今から見に行く」
「おれも付き合うよ」
「わーありがとー」
渡り廊下を歩きながら、校庭の隅に寄せられてまだ解けきっていない白い雪をなんとなく見ていた。空は薄く青く、澄み切っていて冷たい。
「なあ」
高尾が、わたしのほうを見る。
「中退とか、するつもりなの」
「なんで?」
「子どもできたんじゃないの」
はは、とわたしは笑った。
「想像力豊かだね」
「原田と別れたでしょ」
「てか、付き合ってるって、知ってたんだ」
「わかるってそりゃ。二人の距離やたらちけーし」
「ふーん。みんなわかってたのかな」
「さあな。おれ鋭いほうだから」
「はは。でもわたし、原田と別れてないよ。残念」
「まだ、ってことでしょ?」
答えずに、理科準備室のドアをノックして、開ける。吉田先生いますかー?と問いかけると、他の理科の先生が、「今日は研究日だからいないよ」と答えてきた。
85 無名さん
読んだけど意味わかんねぇ
私が池沼なのか?
86 無名さん
ああ、そうだった。しばらく学校にあんまり来ないから忘れてた。失礼しました、といってドアを静かに閉める。そういえばそうだった、とわざとらしく今気づいたというふうを装っている高尾をじろりと見て、「わざとでしょ」と言うと、高尾は笑った。
「うん」
中途半端に長い渡り廊下を戻る途中に、中山先生に高尾は上履きの踵を踏みつぶしているのを注意されて、その場でしっかり上履きを履かされて、わたしはそれをちょっと笑いながら見ていた。そうしたら中山先生がわたしをほうをふっと見て、「最近あんまり見ないけど、へいき?」と言うから、「もうだいぶ良くなりました」とまた笑ってみせた。「よかった」と先生は言った。ほんとはどう思ってるのかなあ。
中山先生が向こうに歩いていってから、高尾はしばらく校則の厳しさについてぐだぐだ言っていて、わたしはそれをうわの空で聞き流していた。
「もう帰んの?」思い出したように高尾が訊いた。
「うん、五限の先生にこれ渡しといて」
わたしは保健室でもらった早退届を高尾に渡した。
「おっけ」
「ありがとね」
「いーえ。それでさ」
「うん」
「……いや、いいや」
「よかった、いままた何か言われたら嫌いになるとこだった」
「あっぶねー」
ひょうきんな態度で高尾はけらけらとよく笑う。ばいばい、と言うと、また明日な、と念を押すように言われた。うん、また明日ね、とわたしは鸚鵡返し。
87 無名さん
次の日は学校を休んだ。学校に向かってる途中、電車の中で吐いてしまった。最悪で、最高にみじめな気分だった。えずきながら、涙が出た。家に帰ってからやることもなく、なのになんだかたいへん疲れていて、わたしはずっと寝ていた。寝ている間、かわるがわる、うるさくてカラフルでグロテスクな夢を見た。

わたしが電車で吐いた、という話は、学年中に広まっていた。最近は体調が悪くて、欠席することが多かったから、吐いたのもそのひとつだと思われているみたいだった。クラスの女の子が、すごくわたしの心配をしていた。
メールで裏庭に呼び出してきた彼は、わたしに茶封筒を渡した際に、一言「大丈夫か」と事務的に問いかけた。わたしは「うん」としか言えなくて、喉がまだ詰まるようなかんじがした。
「もう、こわい?」
なんのことを訊いているのかはわかる。
「すこし」
「別れるか?」
おまえはもう決めきっているだろうに、わたしに決定権があるみたいな言い方がずるい。やさしげな、いたわるような声に、わたしはうつむいて、「そうする」と答えるしかない。こうやって、言葉少なに相手の意思を呑み込める関係が、心地よかった。おまえの、やさしいふりをした強引さも、好きだった。でも、ずっと一緒にいたいとは、思ってなかった。けれど、けれども、それはまだ、いまじゃないと、思ってた。
「ありがとな」
「うん。ありがとう」
「わりと、これでもさ、ちゃんとあなたのこと好きだったよ」
言ったことなかったけど、わたしはおまえの、そういう、「あなた」って呼ぶ丁寧なところが、好きだった。
「わたしも」
出来損ないみたいに、同じ言葉しか返せない。わたしのいままでっていったいなんだったんだろう。大したことじゃない、と抑え込もうとするわたしと、そんなわけがないとはねのける、わたしの臆病さが、ごちゃごちゃして、めんどくさい。わたし、幽霊とか、いやなんだよな。そういうの、聞くよな。おろした子どもが、肩とかにのってて、おいでおいでしてるとかそういう不気味な話。やばいな。信じてないけど、こわいんだよな。あーあ。「大丈夫だよ」と綿菓子みたいなセリフを吐いて、彼はわたしにキスをしたけど、そういう意味のないこと、するな、もう、触るな。
88 無名さん
もうやめていいかな、山口のおばあちゃんち行って家の手伝いしてとかって暮らしていけないかな、高校ってなんかだるいしもうやだな。義務教育じゃないのになんでこんなとこに義務感もって毎日ねむくてだるくてつかれてんのに通ってんのかな、中三の担任にも言われたじゃんね、わたしがいつまでも行きたい高校決めないでいたら「高校行く必要ないんじゃないの」って、冷たい声で、怒ってるみたいに。そういうことを思いながらまた保健室に向かおうとしてたら、後ろのほうにいたらしい高尾がわたしを追いかけてきて肩を叩いた。こないだからほんとよくわかんないタイミングでわたしを見つけてくる。
「また、帰んの」
「うん」
「えー寂しいわー」
「あはは、ごめんね」
高尾はスッと目を細めた。
「なあ、おれさ、ほんとは前からおまえのこと好きだったんだよね」
「なにそれ」わたしは思わず嘲った。「たしかに、鋭いんだね、高尾って」
「でしょ」無邪気な顔で笑いやがる。
「でも、別れたとたんにそういうこと言ってくるのって、なんかずるいよね」
「嫌いになった?」
「いや、どうでもいいけど」
「それはそれで傷つくわー」
「高尾、そういえば、原田に似てる」
「え、なに、どこが」
「残酷なところ」
「意味わかんねー」また笑う。
「でもそれって、望みありってこと?」
「ポジティブだね」
あきれて失笑した。
リュックからペットボトルを取り出して水を飲む。ほんとは既定のスクバがあるけど、最近クラスでリュックが流行ってる。さわことかショッキングピンクのリュックを持ってきてるけど、吉田先生はそういう規律に価値を感じてないからそんなに取り締まらない。わたしは吉田先生のそういう賢いところが好きだなと思う。わたしは賢い人が好きなんだと思う。
「でしょ」
だからわたしは高尾も好きなんだと思う。でもこれってなにか、意味のあることなのかな?どうせ別れるのに、なんで付き合うのかな?
「引き留めてんだよ」と高尾は、わたしの心が読めているみたいに言う。
「ほんとは、言うつもりなかったけど、いなくなられるのは、やっぱいやだから。おまえ、このままフッと消えそうだから、こわくて。あ、これ、おれの愛情表現ね」
なにそれ、と言って、笑った。笑いすぎて、涙が出た。泣くなよ、と困ったような声が頭の上から降った。ためらうようにぎこちなく、わたしの頭をあたたかい手が撫でた。
89 無名さん
授業はもう始まっていて、廊下には人通りがない。授業をする教師の張り上げられた声が、内容まではちゃんと聞き取れないものの、ぼんやりと声質だけつたわってくる。自販機の隣にあるベンチで、一人分の距離を開けて高尾と並んで座った。授業いいの、とは訊かなかった。どうせ、いいよべつに、と返ってくるだけだ。まるでわたしが大切かどうかを問いかけるみたいで、そういう考え方も自意識過剰みたいだけど、イヤだ。
高尾が、わたしが泣き止んだのかどうかを確かめるために、かたくなにうつむいたままのわたしの顔を覗き込んだ。わたしの隣にちゃんと誰かがいるということが、いきなり胸に迫って、それはものすごい事実で、また涙がじわりと出てきて、瞬きをした拍子にぱたりとスカートの上に落ちた。
いきなり、高尾の声は愛おしげにわたしの名前を呼んだ。涙をすくいとるように、高尾はわたしの眦にキスを落とした。わたしは驚いて、かたまってしまって、動けなかった。高尾は、鼻の頭や、頬や、耳朶を、どんどん唇でたどっていって、最後には首を舐めて、柔く噛んだ。ふと止まって、わたしを挑戦的な眼で見た。わたしはまだかたまっていた。顔をもう一度近づけてきた高尾に、かろうじて聞こえる声で「やめて」と言った途端、パッとわたしから離れて、焦ったような顔をした。
「ごめん」
高尾は眉を下げて、つらそうな声をだした。
「ほんとにごめん、つい」
涙は止まらなかった。どんどん溢れてきた。
「わたしこそごめんね」絞り出した声は震えていた。
「困らせたいわけじゃなかった。おれ、ほんとに、今のは軽率だった、ごめん」
「違うよ。違うよ……聞いてよ……」
耐えきれなくてうずくまった。高尾が一人分の距離を詰めたのがわかった。ふわりと、いいにおいがした。
「うん、なに。聞くよ」
優しい声だった。
「わたしって、最低だよねって」
「うん」
「気を付けてたけど、でも結局、こんなばかみたいなことして、軽蔑してたのに、なんでこんな、ガキなんだろう、もう、やめたい……」
90 無名さん
うわごとのように、わたしは意味をなさない文章を吐き出す。大丈夫だから、と高尾は優しい声で何度も言った。大丈夫だから、大丈夫だから、大丈夫だから。もうすべて決定して、終わってしまっているのに、全然、大丈夫じゃないのに、わたしはその綿菓子みたいな言葉に、ふわふわ浮かされて、誤魔化されて塗りつぶされて、わからなくなっていく。圧倒的だったはずの事実が、霧がかかったようにもやもやとしていって、浅ましくわたしを守る。
「なあ、やめないよな」
「なに」
「学校」
「ああ、うん……」
「約束しろよ」
なあ、約束しろよ。確固とした声で、高尾は繰り返す。たぶんそれは優しさで、だからこそ残酷だった。廊下は寒くて、つま先がありえないくらいに冷えている。いつの間にか辺りはしんと静まり返っていて、ただ焦ったような鼓動の音だけがふたつ、聞こえている。