4 無名さん
「なまえチャンさ、新開の背中、見たことある?」
とニヤニヤしながら唐突に荒北くんが言ったので、あたしは首を横に振った。それにますます荒北くんはニヤつき、吸っていたタバコをぎゅっと灰皿に押し付ける。「背中にネ、鬼が住んでんの」「鬼?」「そ、鬼」聞き返すと頷いた。チラリと第3ボタンまで開けたワイシャツから覗くヘビと目が合う。荒北くんにヘビは似合うけれど、隼人くんに鬼は似合わない気がした。あたしの記憶の中の隼人くんはいつもにこにこしていて、優しい声音であたしの望むことやワガママを何でも叶えてくれる。刺青が入っていることは何とも思わないけれど、それでも違和感は感じた。
「ふぅん」
「アッサリしてるネ」
「荒北くんのタトゥーでもう慣れちゃったよ」
荒北くんは会うたびにタトゥーが増えている。胸のヘビも、前までなかったものだ。「ねえ、いつまでいるの? 隼人くん帰って来ちゃう」隼人くんは嫉妬深いので、こうして彼の友人と会うことにもあまりいい顔をしなかった。その時だけはいつもにこにこしている隼人くんも、目が笑っていなくて怖いのだ。
「ね、なまえチャンもタトゥー入れよォ?」
「そんなことしたら隼人くんに嫌われちゃうよ」
「案外喜ぶかもヨ?」
「喜ばないよ」
「なまえチャンは新開の何を知ってんのォ」
荒北くんの顔が近い。問いに答えられずにいると、ニヤ、と笑われ触れるだけのキスをくれた。軽いやつだと油断していたら、ぬるりと舌が入ってきたので思いきり噛む。「痛ッてェ」「舌入れるから」「ダメ?」「だめ」「元セフレにそんなこと言えんのなまえチャン」荒北くん、なんて他人行儀な呼び方しないでさァ、ヤストモって呼んでヨ。前みたいに。荒北くんと目が合う。暗い、底なし沼みたいな目の色をしている。出会ったときから何も変わってない。「呼ばないよ」「呼んで欲しいなァ」「ねぇ、本当に帰って。もう少しで隼人くんが」「俺がどうかした?」帰って来るから、と言葉を紡ぐ前に背後から慣れ親しんだ声が聞こえた。ドクドクと心臓の音が速くなる。
「靖友、おめさん、ちょっとばかりなまえに近くねぇか」
「そォ? 普通じゃナァイ?」
5 無名さん
ニヤニヤと笑いながら荒北くんが抱きついてきたのでさらに心臓の音が速く、大きくなった。ぶわっと冷や汗が出る。
「…………で、俺がどうかしたのか? なまえ」普段よりワントーン下がった声色を聞いて、ああ、怒ってるなあと判断する。震える声で「どうもしないよ、」と告げれば「本当に?」と後ろから抱きしめられた。「俺に言えないようなこと、靖友としていたんじゃないの?」耳元で言われ泣きそうになる。「ふふ。ね、なまえチャン、好きだヨ」「いくら靖友でもなまえはやれないなあ」「はは、」「こっち見てヨ、なまえチャン」荒北くんがニヤニヤと笑っている。脳みそが現実逃避を始めた。新開の何を知ってんのォ。と荒北くんの言葉が不意に響く。背中を見ことがないばかりじゃなくて、あたしは隼人くんの名前と、顔と、食べることが好きなことぐらいしか知らない。もしかしたら名前も違うかもしれない。職業も何をしているかなんて、全然分からない。いつもスーツを着ていることぐらいしか。サラリーマン、なのかな。でもサラリーマンにしては、「なまえ」背後から急かしたように隼人くんの声が聞こえる。あたしは顔を上げることができない。