89 無名さん
セツの体はどちらかというと頑丈なほうだった。一日中雨に打たれても風邪は引かないし、肺炎にもならない。ハエの集る残飯を口にしても、腹を下したことはない。でも、セツの心は繊細すぎるほど弱かった。所謂ガラスのハート。人の笑い声が鼓膜を揺らすたびに発狂し、誰かが腕を振り上げるたびに頭を抱えて座り込む。彼女が何に怯えているかは、彼女にしかわからない。他人から見たらそれはただの幻想に過ぎない。けれど、彼女はそれを真と捉える。

廃墟と廃墟が寄り添い合う、人気のない町の中。天気は、今にも雨が降り出しそうな灰色の空。セツは藍色の瞳で、それを仰いだ。それはセツにとって変わらない光景だった。何時の日か、セツの瞳は色の違いがわからなくなった。全てがモノクロで、空は何時も闇に閉ざされている。セツは、既に愛用と化したナイフを握る手に力を入れた。そしてその刃を、腕に食い込ませた。

「死にたい」と思ったことは何度かある。けれど「怖い」という感情に飲まれて、ナイフを握る手には何時も中途半端な力しか入らない。けれどその中途半端な痛みが、セツに生きてる実感を与える。セツは自傷行為を続ける典型的な人間だった。

ぱっくりと穴の開いた腕から、どす黒い液体が溢れ出す。それを見て、セツは腹の底から息を吐き出す。まるで久しぶりに呼吸をしたかのように、それは重く苦しげだった。


これなんて説明書き