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僕がまだ浪人生だった頃。
親から都内にアパートを借りてもらい、予備校に通いながら受験勉強する事になった。

「静かな環境ですよ」と言われ決めたアパートだったが、越して来てすぐに気になったのは隣りに住む女性の部屋からの子供の夜泣きだった。

一月程は我慢したものの、毎晩の様に聞こえて来る火のついた様な子供の泣き声。
まぁ子供の夜泣きだけなら仕方ないとしても、なにより我慢ならなかったのは子供を怒鳴りつけるヒステリックな女性の叫び声。
僕はとうとう大家さんに相談に行った。

しかし大家さんは「彼女には子供なんて居ないはずだよ」と取り合ってくれない。
仕方なく彼女に直接注意に行った。
当初玄関先まで出て来てくれたものの、彼女は僕の話しを聞くと急に青ざめて逃げるように部屋の扉を閉めて出て来ようとはしなかった。
その晩は諦めて僕は部屋に帰った。

そんな翌日。僕は予備校から帰るとアパートが何やら騒がしい。
パトカーも数台来て何か事件があった様子だった。
人込みのなかに大家さんを見つけて尋ねると、なんと彼女が自殺していたらしく、死体で見つかったとのこと。
僕はびっくりしたものの子供の安否が気になり近くにいた警察官に尋ねると、子供など居ないと言う。

僕は気になりながらも警察も引き上げ騒ぎは一段落した。
しかしその晩遅くに僕の部屋に私服の刑事が訪ねて来た。

「彼女とは以前からのお知り合いですか」
僕は否定すると、「先ほど警察官に彼女子供の事を尋ねましたよね?」

僕はこの一ヶ月間のことと昨晩の事を話した。
不思議そうな顔をする刑事が言うには、彼女の遺留品の中のトランクに死後半年程経過した幼児の死体が発見されたとの事だった。

僕があの一ヶ月間聞いていた子供の泣き声は何だったんだろう?
自殺した彼女は誰に怒鳴っていたのだろう。
 
水場ってのは幽霊が集まりやすい状況を作り出すらしい。
特に流水じゃなく、溜まった水。

普段生活している中だと、風呂場やトイレなんかがそれに当たる。
霊道直下らしいマンションに住んでいるせいか、俺はよくそういう現象に出くわす。
その中で一つ、かなりインパクトの強かった水場の話がある。

その日は友人達と遊んで、部屋に帰ってきたのが深夜2時を少し回った頃だった。
煙草の臭いが全身に染み付いて、気持ちが悪い。
ひとっ風呂浴びよう。
そう思って、俺は風呂場に向かった。

寒い季節だったから、浴室は冷え切っている。
少しでも浴室を温めるために、俺はシャワーの栓を捻った。
キュッと小気味いい音がして、勢いよく水が流れ出す。
服に水がかからないようにシャワーをフックにかけて、俺は浴室を出た。
シャワーは入り口とは反対側、浴槽の方に向けて、勢いよくお湯を出している。

その状態にしたまま服を脱ぎ始める。
脱ぎ終わって入る頃には、ちょうどいい温度のお湯が浴びれるだろう。
上半身を脱ぎ終えた時、ふと浴室の方に目をやった。
湯気で浴室全体を温めるために、浴室の扉はしっかりと閉じている。

その扉、曇りガラスの向こう、人の影があった。
ゆるゆると手で顔を覆い、ストンと電池の切れた人形みたいに脱力する。
それを繰り返していた。

お湯が浴槽を叩く音に混じって、パシャッ、パシャッ、と何かが落ちるような音がする。
俺はゆっくりと扉に手を伸ばした。
扉に手がかかった瞬間、一気に扉を押し開ける。

湯気がもうもうと立ち込める浴室の中、勢いよく流れ出るお湯を浴びながら、女が立っていた。
着ている服が水に濡れて、ぴったりと張り付いている。

俺は扉を思い切り閉めて、上着を掴んで部屋を飛び出した。
今までだって結構な数の幽霊を見ている。
でも、あの女はヤバイ。纏っている空気が違う。
多くを見てきたからこそ、ヤバさが分かった。
走りながら、上着を着る。近くのファミレスに逃げ込んで、やっと人心地がついた。

落ち着いてきたところで、あの女を思い出してみる。
身体の向きから考えると、あいつはこっちを見ていた。
でも、目は合わなかった。
纏っている空気から考えて、あいつは何かを強く恨んでいた。
でも、表情は分からなかった。

だって、そうだろ。
あの女は、自分で顔をえぐり取っていたんだから。